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Henri Matisse(アンリ・マティス) :色彩の魔術師

Henri Matisse:The Path to Color

 

8月10日、東京都美術館へ、現在開催中のマティス展,Henri Matisse:The Path to Color

を見に行ってきました。4月から開催されている展示でずっといきたかったのですが、なんやかんやで8月に、、とにかく間に合ってよかったです。

前に別のブログで書いたかもしれませんが、アンリ・マティスは僕が最も影響を受けている画家さんの1人です。

とにかく素晴らしい展示で、有名な作品から習作に至るまで、その時の状況を踏まえて時系列に展示がなされていました。

今回はこの機会に、今回の展示で得た知識を踏まえながら、アンリ・マティスという画家についてまとめてみようと思います。

 

1.アンリマティスの少年時代

マティスは1869年12月31日に北フランスの、カトー=カンブレジにて、穀物商の家に生まれた。

1887-1888年にパリで法学を修め、法律の学位を得て、一度代訴人見習いの職につく。

1890年マティスが21歳の頃。長期療養中の暇つぶしにと。母から絵具箱を贈られたことをきっかけに絵を描き始める。そこから絵にのめり込んだマティスは、絵の修行を始めることになる。91年の秋にパリに戻ったマティスは、画塾アカデミージュリアンで指導を受け、その後、92年からは画家ギュスターヴ・モローのアトリエに出入りしている。20から25歳くらいまでの間、マティスはルーブル美術館に盛んに通い、優れた作家の作品を繰り返しデッサンし、その技法を学ぶようになる。これにより優れた、正確なモデル画を体得すると同時に、先輩の技法を体得することが出来たのである。この模写の繰り返しは非常に重要で、この後、マティスがが優れた作品を生み出していくための大きな基盤となったと考えられている。この技法は1897年作の<食卓>という作品を見てもよく分かる通り、マティスより先代たちの技法が堅実に盛り込まれている。代名詞でもある単純化された形で、大胆でリズミカルに色彩を置く、いわゆる「マティスといえば」というスタイルとはことなり、デッサンを繰り返し、写実的なスタイルの絵を描いていたのがマティスにおけるこの時代の特徴と言える。

1896年には、マティス自身初めてとなる国民美術協会展に出展。同展では、ルーヴル美術館にある絵画の模写と、<読書する女性>(1894)が国家買上げとなった。この頃からアンリ・マティスの名前は徐々に世界に知れ渡っていく。

<読書する女性>(1894年)

引用:https://www.henrimatisse.org/woman-reading.jsp

 

2.フォーヴィズム以前のマティス

1898年、マティスが29歳の頃、サン=ミシェルやブルターニュへの滞在を経て、パリに戻ったマティスはポール・シニャックの新印象派絵画に出会い、その手法を取り入れ始める。この頃の作品として有名なのが<豪奢、静寂、逸楽>(1904)、<日傘の女性>(1905)などである。新印象派の筆触分割や点描の技法を取り入れており、のちに始まる”フォーヴィズム”の出発点となった作品と考えられている。

さらに、1900年からは絵画に変更して彫刻の実践も始める。今回の東京都美術館には、マティスの大型彫刻の連作である<背中>が展示されていた。形の垂直性や静と動のバランスが探求の探求のための、補完的な習作として彫刻を手がけたとされるが、これ自体も非常に素晴らしく力強い作品であった。抽象形態の作品がイメージづけられているマティスであるが、デッサンを繰り返し、さらには彫刻なども実践することによって、描く対象の正確な色や構造、構図を理解していったのである。その者が描く絵が抽象形態であれ、写実形態であれ、それに関わらず、絵を描くものはペンを通して描きたい対象を今一度正確に見つめ直さなければならないと教えてくれているかのようである。

その後、パリの画家は次第にフォーヴィズムの傾向を帯び、色彩も強く、筆のタッチも大胆に処理されるようになってくる。マティスが当時交際していたセザンヌの特別陳列が1904年に行われ、加えてマティスらは1905年に「サロン・ドートンヌ」に参加。これらの展示で初めて野獣派(フォーヴィズム)というものが認められるようになってくる。マティスらの作品が並んだ第 VII展示室は美術界の一大事ともいうべきものとなり、美術批評家ルイ・ヴォークセルは同展示室を「フォーヴ(野状)の樒」と形容、そこから「フォーヴィスム(野派)」という呼称が生まれる。非常に本能的な、人間の意思を率直にぶつけたような作風に一部の画家たちは強く引き込まれていき、マティスもこの同年代の画家たちと共にこの運動に参加し、のちのこの運動のリーダーと呼ばれる画家になっていったのである。

<豪奢、静寂、逸楽>(1904年)

引用:https://www.artpedia.asia/luxe-calme-et-volupt%C3%A9/

 

3、第一次世界大戦期とニース時代

1906年、マティスが37歳くらいの頃、マティスはパリのスタイン邸でピカソに出会う。この出会いを発端として、ピカソとの間には長年にわたる親交関係と、豊かな競合関係が生まれる。

その後、イシー=レ=ムリノー、モスクワ、モロッコと渡り歩き、1914年にはサン=ミシェルに戻る。この時代にマティスは<赤のアトリエ>(1911)<ダンス>(1910)<音楽>(1910)など数々の名作を生み出している。

<赤のアトリエ>(1911年)

引用:https://www.artpedia.asia/the-red-studio/

 

<ダンスⅠ>(1909年)

引用:https://www.artpedia.asia/dance/

 

1914年には第一次世界大戦が勃発、開戦にともないドイツ政府により差し押さえの対象に<ホットチョコレートポットのある静物>などが含まれていた。

1918年には、ニースに拠点を移し、アパルトマンを借りる。初めのうちは、ニースと、イシー=レ=ムリノーにかわるがわる滞在し、制作を続けていたが、1921年にニース旧市街にアパルトマンを借り、以後1926年までここに住む。マティスにおける「ニース時代」の始まりである。(マティス51歳ー58歳くらい)ニース時代には南仏の美しい自然の影響を受け、マティスの作品は、さらに明るい色彩を帯びていく、また、マティス作品によく見られる、窓を構図の中に配置する作品もこの時代からはさらに多く見受けられるようになる。<ニースのアトリエ>(1929)<バイオリンケースのある室内>(1919)などがその一例であ、窓の外の風景にニースの自然の美しさを見ることができる。また、この時代の大作の一つに一連の「オダリスク」がある。肌が顕になり、異国情緒が感じられる衣服を身に纏った女性像は、マティスのフォーヴィズム時代の代表連作の一つと言っても過言ではない。

1928年には、オダリスクの主要なモデルであったアンリエットが去ったことで、マティスはこの主題を打ち切ることを余後なくされた。彼の絵画

制作は危機的状況に陥るが、そのなかで取り組んだ絵画<緑色の食器戸棚と静物>(1928)がひとつの転換点となり、マティスの仕事に根本的な変化が起きることになった。

<バイオリンケースのある室内>(1919年)

引用:https://haveagood.holiday/events/4234/images/27687

 

<赤いキュロットのオダリスク>(1921年)(ポンピドゥーセンター)

個人撮影(東京都美術館:マティス展にて)

 

<緑色の食器戸棚と静物>(1928)(ポンピドゥー・センター)

個人撮影(東京都美術館:マティス展にて)

 

4.マティスの転換期

1930年代の始まりとともに、マティスは船でニューヨークにわたり、その後、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコを回ったのちに、タヒチへと向かった。

この旅行によってマティスは、異なる種類の光が大気を満たす新たな空間に出会い、心身共に生まれ変わる。1933年にはバーンズ財団の壁画を引き受けて、この制作に相当長い時間を費やす。幅13メートルにも及ぶこの大壁画の制作は、イーゼル絵画から大掛かりな装飾へ移行するきっかけを与えた。これを機にマティスの表現手法は、また、さらに単純化していくこととなる。

また、マティスは1932年にリディア・デレクトルス・カヤという女性と出会う。(マティスはこの時63歳)以後彼女は、マティスが没するまでそばに付き添い、アトリエの切り盛りを一手に担うことになる。さらにカヤは、この時代のマティス作品にもモデルとして頻繁に登場する。<夢>(1935)では、組んだ両腕に、頭をもたれかけたうつ伏せの体勢で作品内に登場している。以後、マティスが好んで取り上げるポーズである。

1938年には、ニースのシミエ地区にあるかっての高級ホテル「レジナ」にアパルトマンを購入。10月に入居。このアパルトマン兼アトリエで最後の傑作

群を仕上げることになる。

1940年に刊行された、『ヴェルヴ(verve)』誌の戦時特集号に参加。マティスはヴェルヴ誌の参加と表紙の制作で盛んに切り絵による制作技法を使うようになる。

<夢>(1935年)(ポンピドゥー・センター)

個人撮影(東京都美術館:マティス展にて)

 

5.第二の生

1941年にマティスは体調を崩し、緊急入院することになる。(当時71歳)ニースに戻りはするものの、介護を受け、寝たきりのまま制作する。またこの頃ちょうど第二次世界大戦が勃発し、心身共に穏やかでなかったことが伺える。1943年、体調を回復したマティスは、空爆の危険があるニースを離れ、ヴァンスにある「夢」荘に避難。この頃からまた切り絵を手がけ、これがのちの『ジャズ』の出版につながる。(『ジャズ』は1947年12月に刊行された。)

<ジャズ>より《道化師》(1947年)

引用:https://omochi-art.com/wp/matisse-jazz/

 

また、国立ゴブラン繊物製作所の求めに応じ、オセアニア、ポリネシア旅行に想を得た巨大切り紙絵<ポリネシア、空>と<ポリネシア、海>を制作。並行して壁布<オセアニア、空> と<オセアニア、海>(1946年)にも取り組む。このように第二次世界大戦期のマティスは、形の色彩の単純化の究極体とも言える切り絵を使った作品を次々に生み出していったのである。

また1946年から1948年にかけて、最後の間が連作である『ヴァンス室内画群』を制作。<黄色と青の室内>(1946)がシリーズ第1作、<赤の大きな室内> (1948)が締めくくりとなる。これらの作品群には、単純化された背景、大きな陶器のツボ、小型円卓に乗せた果物、窓など、マティス絵画ではお馴染みの事物が配され、構図と色彩はさらに単純化され、大胆に配置されている。総じて、この『ヴァンス室内画群』はマティスのこれまでの仕事が凝縮されていると言える。

<黄色と青の室内>(1946年)ポンピドゥー・センター

個人撮影(東京都美術館:マティス展にて)

 

<赤の大きな室内>(1948年)ポンピドゥー・センター

個人撮影(東京都美術館:マティス展にて)

 

6.ロザリオ礼拝堂

1948年から、マティスは、ヴァンス、ドミニコ会ロザリオ礼拝堂の制作に着手する。この中にマティスは画家生活60年の総決算とも言える、偉大な美を作り上げていった。今回の東京都美術館での展示では、ロザリオ礼拝堂の美しい空間を、4K映像で追体験することができた。マティスが生涯にわたり探求してきた技法を駆使して創出された、色と光にあふれた空間。ある冬の日の1日の、礼拝堂内の光の移ろいを体感し、改めてマティスの偉大さと、表現への素直さを痛感することができた。

1949年12月12日、ヴァンス礼拝堂の定礎式挙行下のち、マティスは、ヴェネツィア、パリ、ロンドン、コペンハーゲン、ニューヨークで個展を開催し、1954年の11月3日、ニースのアトリエで死去した。齢84歳であった。

 

https://artexhibition.jp/topics/news/20230327-AEJ1306506/

ロザリオ礼拝堂(引用:美術展ナビ Art Exhibition Japan)

 

あとがき

マティス作品は、その構図や色彩、形の単純さから、一見簡単なことをしているように思われるかもしれません。しかし、こうして彼の歴史と作品を見ていくと、彼が初め、<本のある静物>を実に正確な写実形式で書いてから、晩年の切り絵集<ジャズ>に至るまで。デッサンや彫刻、版画、切り絵、油絵などあらゆる可能性と手法を駆使して、被写体を見つめ、それを自らの芸術に落とし込んでいった、凄まじさ、それは写実から抽象に至るまでの現代絵画誌を一人の人間の人生で魅せてくれた偉大で、類を見ない作家だと思います。こう言った、物事を観察し尽くす力、可能性に飛び込み新しいものにも臆さず挑戦する姿勢、確かなデッサン力に伴った完璧な構図と色彩感覚、そして何より死ぬ間際まで表現を続けたその姿勢。このあらゆる要素が、当時から現在に至るまで多くの人の心を掴んで離さない理由のように思われました。今回の東京都美術館での展示を通して、改めてアンリ・マティスという画家の偉大さを思い知らされました。今僕は24歳、マティスが、初めて国家買上げとなった<読書する女性>を描いた年です。もちろん競うようなものではないし、競えるようなレベルにはまだまだ到達しませんが、マティスのように、挑戦と努力を惜しまず、表現を楽しみ続けられるようなアーティストになりたいなと強く思わされました。

おしまい

 

<参考>

・マチスのみかた|猪熊弦一郎

・マティス展(HENRI MATISSE The Path to Color)|東京都美術館

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